岩槻区にはどのような歴史があるの?岩槻区といえば人形?

2023年1月16日

この記事では、埼玉県の岩槻区の歴史についてお伝えします。
日本人形づくりで有名な岩槻ですが、それ以外にも時代の流れの中で様々な出来事が起こってきました。
自分の住んでいる、もしくはこれから住もうと考えている土地の歴史について、しっかりと知っておきたい方の参考になると幸いです。

 

目次

□岩槻区の歴史について!人形づくりの歴史がある?

岩槻区は、長らく城下町として発展してきた歴史があります。
その歴史は、関東(関八州)における砦の1つとして、岩槻城が築かれた室町時代にまで遡ります。

その後、徳川家康によって江戸幕府が開かれて以降、岩槻は江戸に近い城下町として繫栄しました。
また、日光御成道の最初の宿場町としてもにぎわいました。
産業や交通の中心であった岩槻では、岩槻城主を代々徳川の譜代大名が務め、岩槻の地を統轄していました。

そして明治時代、政府が発令した廃藩置県によって、岩槻は廃藩され、その後、他の土地との合併によって埼玉県が誕生し、岩槻に初の埼玉県庁が置かれました。

このように岩槻は、城下町として隆盛したのを皮切りに、江戸近郊の立地にも恵まれ、長い間、交通や産業の核としてこの地域の発展に欠かせない役割を果たしていました。

また、この地域特有の文化の発展にも大きく影響しました。
その中でも、今なお続いている、この地域特有の文化が「人形づくり」です。

 

*岩槻の人形の歴史

岩槻は、人形の生産で日本一を誇る、まさに「人形づくり」の町です。
岩槻における人形作りの歴史は、岩槻が城下町として栄えるきっかけを作った人物である、徳川家康を祀るためにつくられた「日光東照宮」と深いつながりがあります。

日光東照宮を建てるために、当時の将軍・徳川家光は全国から優れた工匠たちを招集して、作業にあたらせました。
岩槻は江戸近郊の宿場町で、日光にも近かったため、東照宮に携わった工匠たちの中には岩槻を拠点に活動していた者も多く、彼らは岩槻の名産であった桐を用いて様々な製品を作っていて、そのうちの1つとして人形づくりが発展していきました。

また、本体から頭を貼り付ける糊にいたるまで、岩槻特産の桐と、豊かな水資源を存分に使用する「桐塑頭(とうそがしら)」の技法は、仏師恵信が始めて以来この地域特有の工芸として受け継がれ、「桐塑人形」は岩槻にとって重要な産業の一つでした。

そして現在も、岩槻の伝統工芸としての人形づくりは、江戸時代から続く人形工房や、現代名工たちによって、脈々と受け継がれています。

 

□まとめ

今回は、岩槻区の歴史についてお伝えしました。
城下町として発展し、人形作りの深い歴史がある岩槻区は、今もなお由緒ある町として、人形作りやその歴史の保存・振興に取り組んでいます。
歴史や日本の文化がお好きな方は、人形の趣きにも触れながら、是非、岩槻の風情とその歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

 

 

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